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大戦前史
第一次世界大戦後、欧米列強は敗戦国ドイツには多大な賠償金の支払いの義務を負わせ、
共に戦った日本にはこれ以上の日本の拡大化がないよう対日圧迫政策を用いた。
そしてこれに世界恐慌が加わり両国の貧困は度を深めていった。
ドイツではそのような状況下でヒトラー率いる国家主義政党「ナチス」が徐々に
民衆の支持を集め政権につき領土拡張政策をとった。
日本では活路をアジア進出に求める思想が一般的になっていった。
こうして世界の緊張は徐々に増していったのである。1931年~1933年
1931年9月、中国大陸の満州に駐留していた日本の関東軍は、自ら南満州鉄道を
爆破しそれを中国側の謀略だとし攻撃を開始した。そして1932年3月には満州全土を制圧し
これを満州国とし皇帝「溥儀」をたて傀儡政権を樹立した。
これを国際連盟は日本の侵略行為と判断し満州国の撤回を求めたが、
日本側はこれを受け入れず1933年3月、国際連盟の脱退を宣言し欧米列強との対立を深めた。
同年10月ドイツもラインラントの帰属問題で国際連盟と対立し脱退を宣言するのである。
1935年~1936年ドイツはかねてからヒトラーが唱えていたベルサイユ条約の
打破にとりかかった。1935年1月、ザール地方の帰属をめぐる住民投票で
ザール地方をドイツへ取り返し領土拡張への足がかりとした。
そして次にドイツがねらったのは非武装中立状態であるラインラントのドイツへの帰属であった。
まず1935年3月、ベルサイユ条約の破棄を宣言し同時に再軍備を宣言したのである。
そして1936年3月、陸軍9個大隊をラインラントに進駐させた。こうしてドイツは
ベルサイユ体制に終止符を打ち、それを指揮したヒトラーはドイツの英雄への階段を
上っていくのである。1937年1937年6月、日本では明朗内閣と呼ばれた近衛内閣が成立した。
同年7月、北京郊外の廬溝橋で日中両軍の衝突が起こり、これが発端となり終戦まで
続くことになる日中戦争が始まったのである。政府の戦争の拡大を嫌う声の中、
陸軍は強硬論をもって派兵をし12月には南京を占領、そこで大虐殺事件を起こし中国の
民族的反抗運動を刺激し徹底抗戦を決意させ、これに米英の支援が加わりのちの太平洋戦争にまで
発展していくのである。さらに同年11月、前年に結ばれた日独防共協定にイタリアが加わり
枢軸3国が形成され世界の緊張はさらに増していった。
1938年~1939年8月この年ヒトラーはドイツへのオーストリアの併合計画を実行に移した。
これまではイタリアの反対やイギリスとの外交関係上この計画は実行に移せないでいた。
しかしイタリアがエチオピアに進軍しドイツの支持を要したことなどが重なり
オーストリア併合への障壁はなくなり、1938年3月ドイツ軍は進駐を開始し
オーストリア国会で合併法を可決させた。
勢いに乗ったヒトラーはチェコスロバキアにドイツ系住民の多いズデーテン地方の割譲を要求した。
そして解決のため開かれたミュンヘン会談ではドイツの拡大よりも、
ソ連の拡大を恐れる英仏両国はヒトラーを支持しチェコスロバキアはズデーテン地方を
手放すことになるのである。ヒトラーは英仏は今後もドイツとの対立を避け続けることを確信し、
さらに強気の外交政策を打ち出し続けた。
1939年3月、ドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハに進駐しボヘミア・モラビア地方を
ドイツ保護領とし、残りの領土には傀儡政権を樹立させた。
この結果、英仏はドイツとの対決姿勢を明確に示し始めた。つづけてドイツはポーランドに対し
ダンチヒ地区の返還を要求したが、英仏の支援を受けたポーランドはこれを拒否した。
これに対しドイツは宿敵と見られていたソ連と不可侵条約を結び英仏を牽制し
ポーランド侵攻の準備にかかった。開戦予定日の前日にポーランド・イギリス間に
相互防衛条約が結ばれ開戦は延期されたが、
8月31日のドイツ・ポーランド間の形だけの交渉のあと攻撃命令が下され、
ドイツ軍はポーランド領内に侵入した。
9月3日、英仏はドイツに宣戦を布告し第二次世界大戦が始まるのである。