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■聖者の如く
人はすべての関わりから何かを学ぶ。導きの基なすものは関わりの中から出る。何かを知り、何かを学ぶ。自然界の中ではすべてが学びである。この現象の中で活かされてゆく。
瞼の中で見たものは表裏一体となって脳髄神経に送られ、その記憶はその脳裏に深く刻まれる。想像からなる物体は、架空の現象を生み、クローズ城からの招待状となる。
架空の問題意識を考えるあまり、心配事の種は尽きない。現象的な事柄に対してもあるがままに受け止めればよいが、真実の中に付加価値的な要素を含み、誇大妄想的な価値観で事を捉えるがゆえ、小さな事が大きな問題に発展することもある。
人間の良識の中には、割り切れるものと割り切れないもの判断基準があるらしく、こと、ここに見ゆるまいらせば、事の判断基準を軸にして、協議の境を越えて理順滔々(*1)と述べることありき。
物の判断の基準は、その者の持つ価値と良識からなるがゆえ、何が良くて何が悪いのかの返答、宜しく。価値観の違いに見える(*2)ことなく、自己の価値と判断で相手を見るゆえ、いろいろな認識の違いから相手、見え(*2)、論争となる。乱れる抗争の原因は互いに権体で道理を説き、理不尽な動機となって、物見の立場宜しく、巧者な原論となり、諷誡、容赦な者となり、互いの牽制引くともなく、良識の違いにて争うことなり。
立場の違いは各々の違いでもある。ものの見方、判断は、そのとき、その場の立場で変わる。いかようにも変化のとんだ対応出来うるのに互いの立場の違いで理解できない状況になる。物の見識とはそれほどのことや。
偶発的な事柄がこの世に起きた時、人は物事の本質を見抜くため、いろいろな論争で物事を計る。物見の観客は、その論争を火種にして火事場の騒ぎよろしく、推考の伝を練る。
何事もあるがままの実体で対応し得れば、すべての現象は降魔の利剣よろしく、乱れる時世にもまた、自己の価値観と認識にも対応し得る法剣であるのに、時世人は何事にも理解せしめんがため、崩壊の鐘がなる。
曼陀羅縮図にあるように、根本仏教は悟りにある。人間界を絵図に書けば荒れ狂う野原に甲骨示威とした無体の輩が真理、実体も掴めず、表裏一体となり群がる地獄絵図。
聖戦の目的は磨かれること。真理の価値も掴めず、表層真理のみの働きでこの現象界を生くるば、過去の累積も及び、荒野の没海となる。
不滅の状態保つためには、各々の認識深め、聖戦の目的のため誘われた君子の如く、病魔に蝕まれた現象界を封印の開封仕込むことなく、難渋の苦界生くることなく、醜態の争い満ちることなく、聖者のたぐい、涅槃の行となす。
(仏法、僧印、僧正の伏線となる)
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(*1)滔々
「とうとう」と読む。
(*2)見える
「まみえる」と読んで欲しい。
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