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そもそも、朝鮮半島も賠償する立場まあ、東京裁判自体が戦勝国によるでっち上げ裁判ですから謝罪と賠償自体不要なものですが、当時は朝鮮半島も日本の一部ですので、韓国もドイツに併合されて敗戦国として賠償したオーストリア(まあ、オーストリアは朝鮮半島と違い、無理矢理併合させられた)同様、敗戦国として賠償する義務が有ります。 👍 [No9] 2004/09/12 21:34 ![]() | ![]() 項目追加した人 |
![]() あ |
![]() 名無し |
中国、チベット虐殺中国のある情報筋によると、人民解放軍は1950年10月7日~同月25日にかけて、東チベット各地で5,700人以上のチベット「兵」を東チベットで「根絶」し、2,000人以上を投獄したという。 殺戮・殺人、拷問、僧院への砲撃、遊牧テントの一掃といった話は、数多く記録に残されている。 その種の報告は、国際法律家委員会がまとめた、チベットに関する1960年のリポートにも多数記載されている。 中国軍の機密資料によれば、人民解放軍は1952年~1958年にかけて、アムドのカンロ[甘南]地区で996件の反乱を鎮圧し、10,000人以上のチベット人を殺害したという。 またアムドのゴロク[果洛]地区では、1956年に130,000あった人口が、1963年にはおよそ60,000までに減ったという。 パンチェン・ラマ10世は、この地域についてかつて次のように語ったことがある。 「青海省での残虐行為をすべて取り収めた映画があれば、観客は大きな衝撃を受けるに違いない。ゴロク地区では多くの人たちが殺され、死体は丘の上から濠にむけて転げ落とされた。解放軍兵士たちは遺族に向かって、反乱が一掃されたのだからお祝いをしろと言った。あるいはむりやり死体の上で躍らせ、最後には機関銃を掃射した。」 パンチェン・ラマ10世は、演説の中でさらにこう指摘している。 「アムドとカムにおいて、人々は筆舌に尽くしがたいほどの残酷な仕打ちを受けた。10人ずつ、あるいは20人ずつに分けて銃殺されることもあった。(中略)こうした行為は、人々の心に深い傷を残している。」 1959年3月10日にラサで発生した民族放棄が弾圧された際には、3日間で10,000~15,000人のチベット人が殺された。他方、人民解放軍チベット軍区政治委員会による1960年の秘密文書によれば、1959年3月~1960年10月までの間に、中央チベットだけで87,000人のチベット人が殺されている。 チベットを知るために/人権問題 http://www.tibethouse.jp/human_rights/ ![]() 👍 [No5] 2004/09/09 14:58 ![]() | ![]() 名無し |
![]() 名無し | 韓国軍、ベトナムでの凶行韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる。 前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索、破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた。 筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが、その一部をここに紹介する。 1965年 12月22日、韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して、きれいに燃やして、きれいに破壊する”というスローガンの下、捜索掃討作戦を繰広げた。 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供、22人の女性、3名の妊産婦、70歳以上6名の老人を含む、50余名を超える良民を虐殺した。 "… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました。彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました。妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり、子宮が外に出ていました。韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して、子供の頭を切り取って地面に放り投げ、あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました。彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し、ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました。そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…" パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた。 “見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です。” 1966年 3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ。“手にしている、この資料がますます恐ろしくなりますね。ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません。ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです。” 当時の報告によれば、66年1月23日から2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊3個小隊、2個保安大隊、3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて、そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった。また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ、649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された。 このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して、韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した。 生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は、無差別機関銃乱射、大量殺戮、妊産婦、女性に対する強姦殺害、家屋への放火などだ。 生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる。 -住民たち(大部分が女性と老人、子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺 する。 -住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす。 -子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む。 -女性を強姦した後、殺害して、妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。 -住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる。 韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた。 老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。 恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ。 ![]() 👍 [No4] 2004/09/09 14:37 ![]() |
常に被害者面する朝鮮人達の真実2明の前朝である元の時代、モンゴル人が高麗朝を支配していたころ、高麗人は競ってモンゴル人の氏名を名乗る「創氏改名」が流行り、モンゴル風を学ぶ動きが風靡した。 高麗朝の多くの貴族はモンゴル名を持っていた。 しかし、モンゴル人が明によって万里の長城の外まで追われると、朝鮮朝の太祖である李成桂は高麗朝から政権を奪い、モンゴル人を叩いて事大の対象を元から明へと鞍替えした。 明が遼東半鳥に進出していたころ、朝鮮人は明の先頭を切って満州人を征伐したため満州人から恨まれた。 そのため、満州人の朝鮮人に対する大規模な逆襲である「丁卯胡乱」(1627年)と「丙子胡乱」(1636年)が起こり、朝鮮は清の属国となった。 明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。 父として明を敬っていたはずなのに、新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。 3回にわたる明征伐では、朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。 満州八旗軍はかなり軍紀正しい軍隊であったが、盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていた。 しかし、朝鮮軍が満州人の軍門に下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい虐殺と略奪を行ったのだ。 清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の記録には次のようなものがある。 「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝(シナの異称)、朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」(恒屋盛服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)。 明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。 しかし、いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した。 日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。 万宝山事件は、朝鮮人と中国人の水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。 満州では、朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた。 ![]() 👍 [No3] 2004/09/09 14:17 ![]() | ![]() 名無し |
![]() 名無し | 常に被害者面する朝鮮人達の真実1韓国人は被害者の面を強調するが加害国として日本に攻め込んだ過去もある。 隣り合う国は侵略したり侵略されたりするものだ。 外国を侵略したことが一度もないという自慢話も大嘘である。 北方諸民族は、たいてい一度は長城を越えて京師を占領、あるいは中国を征服して王朝をつくったことがあった。 唯一それをしなかったのが韓人である。韓人にとってはくやしい史実かもしれないが、カが及ばなかったというのが本当のところだろう。 それでも、外国への侵略をまったく行わなかったわけではない。 新羅時代に新羅人はよく日本列島を侵寇していた。 もしそれが侵略ではないとしても、韓国の教科書では、元寇を日本「征伐」として教えている。 そのとき日本を侵略したのは高麗軍だった。 高麗軍が壱岐対馬を襲ったときは、島民を虐殺して200人の童男童女を強制連行し、忠烈王と公主に献上した。 高麗軍への評価には尾ヒレがつき、モンゴル軍に抵抗したことで日本が征伐されるのを救った。 日本が無事だったのは、高麗軍の働きがあったからだと嘘の歴史を教えている。 高麗朝にはユンクアンの女真征伐や李朝時代の「応永の外寇」(1419年)のように対外侵略もあったが、李朝では朝鮮人の満州人いじめから起こった満州人とモンゴル人の逆襲や復仇のための戦争である「丙子胡乱」で、朝鮮は清の属国になった。 しかしその後も、満州人とともに2回の羅禅(ロシア)遠征や三回の明への侵略を行った。 後述するが、明人を大量虐殺したのは、朝鮮軍だったのだ。 第二次大戦後も韓国軍は米軍の先頭に立って海外派兵を行い、ベトナム戦争ではベトコン叩きに躍起になったのだった。 ![]() 👍 [No2] 2004/09/09 14:00 ![]() |
日本はとっくに謝罪と賠償を済ませてますがまた戦後責任、謝罪、賠償か?お前ら中韓人は馬鹿の一つ覚えのようにそれしか言えないな。戦後、謝罪・賠償を済ませているからこそ貴様等の国とも国交があるんだろうが。そんなことも知らないで生意気な口叩くなよ。あとなぁ、そんなに日本が嫌いならさっさと出てって祖国へ帰れよ。お前ら寄生虫にいつまでも居座られるとこっちも迷惑なんだ。参政権?お前らなんかにやらねぇよ。さっさと失せろ。 👍 [No1] 2004/09/09 13:49 ![]() | ![]() 項目追加した人 |
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